私の研究を支える出会いについて
現代心理学部映像身体学科准教授 日高 優
2015/04/03
研究活動と教授陣
OVERVIEW
現代心理学部映像身体学科 日高 優 准教授による研究室紹介です。
映像身体学科の懐へ
本学大学院での授業の様子
私は、「映像身体学」の一学徒です。写真映像を分析することを通じて世界のありようを探り、また、人間がカメラという光学機械を用いて析出させる写真という知覚の営為の意味を明らかにしようと研究してきました。抽象的とか思弁的とか思われるかもしれませんが、そうではありません。カメラのレンズの前に実在するものを光の痕跡として描き出す、具体的な一枚の写真の分析から、いつも私の研究は始まります。
私が「21世紀の人間学」を目指す本学現代心理学部の、映像身体学科に着任して一年余が経ちます。「映像身体学」とは、2006年にこの学科が創設されて以来、いま切り拓かれつつあるひとつの〈思考の領域〉です。新しい学問ですが、トレンドを追うものではなく、時代のありように目を凝らしつつも、実はまだ充分深く思考されていない人間の身体や映像という、〈在るもの〉の側から出発する人文学です。東西の哲学?思想を軸に、演劇やダンスなど身体表現の、そして映画やテレビ制作など映像系の理論家、実践家を擁した学科で、もちろん私はまだ新米。ですが、映像身体学の意義は既に自分の内側から掴まえていて、映像身体学の学徒と名乗ることが最も自分にふさわしいと、深く感じてもいるのです。というのも、私は本学に赴任する前、自身の写真研究を独り遂行するなかで、映像身体学の問題圏の核、すなわち〈知覚〉の問題に私なりの道を辿って立ち至っていたからです。知覚の問題圏は、身体を持って生きる私たち人間が、映像の本質や力をまっすぐに見つめようとするとき、必然的に向かうべきところとして姿を現してくるのだと思います。そして、この映像身体学という思考の領域が、どれほど現代社会の混迷を照らすのに貢献しうるか、そのことを想うと、私は身の引き締まる思いがするのです。
このように、私は出会うべきものに出会うことができ、価値あると思うものに献身する場を与えられた、実に幸運な研究者です。また、大学で最上の教育とは、研究に邁進する自らの背中を学生にみせることですから、その意味でも恵まれているのです。本稿では、私の学問における大切な三つの出会いを記すことで、人がいかにして学問を志し、どこへ向かおうとするかの一例を披歴できればと思います。出会いの一つ、映像身体学との出会いについては既に触れました。あとの二つは、〈写真〉との、そして〈アメリカ〉との出会いです。
私が「21世紀の人間学」を目指す本学現代心理学部の、映像身体学科に着任して一年余が経ちます。「映像身体学」とは、2006年にこの学科が創設されて以来、いま切り拓かれつつあるひとつの〈思考の領域〉です。新しい学問ですが、トレンドを追うものではなく、時代のありように目を凝らしつつも、実はまだ充分深く思考されていない人間の身体や映像という、〈在るもの〉の側から出発する人文学です。東西の哲学?思想を軸に、演劇やダンスなど身体表現の、そして映画やテレビ制作など映像系の理論家、実践家を擁した学科で、もちろん私はまだ新米。ですが、映像身体学の意義は既に自分の内側から掴まえていて、映像身体学の学徒と名乗ることが最も自分にふさわしいと、深く感じてもいるのです。というのも、私は本学に赴任する前、自身の写真研究を独り遂行するなかで、映像身体学の問題圏の核、すなわち〈知覚〉の問題に私なりの道を辿って立ち至っていたからです。知覚の問題圏は、身体を持って生きる私たち人間が、映像の本質や力をまっすぐに見つめようとするとき、必然的に向かうべきところとして姿を現してくるのだと思います。そして、この映像身体学という思考の領域が、どれほど現代社会の混迷を照らすのに貢献しうるか、そのことを想うと、私は身の引き締まる思いがするのです。
このように、私は出会うべきものに出会うことができ、価値あると思うものに献身する場を与えられた、実に幸運な研究者です。また、大学で最上の教育とは、研究に邁進する自らの背中を学生にみせることですから、その意味でも恵まれているのです。本稿では、私の学問における大切な三つの出会いを記すことで、人がいかにして学問を志し、どこへ向かおうとするかの一例を披歴できればと思います。出会いの一つ、映像身体学との出会いについては既に触れました。あとの二つは、〈写真〉との、そして〈アメリカ〉との出会いです。
写真との出会い
写真との出会いは、大学学部生の頃に遡ります。先輩の写真展に誘われ足を運んだのですが、当時の私は写真に対する特段の興味もなく、展示も凡庸なものでした。ですが、フレームで切り取られた写真をじっくりみると、何事かがみえてくる。その感覚だけは得て、私はすぐにカメラを入手し、日常のなかで写真を撮り始めたのです。すると、世界の断片を切り取る単純極まりない行為の経験が、大切なことを思い出させてくれました。目の前に豊かな世界は在る、ということをです。私は〈在るもの〉をいかに〈みる〉ことなく、日々を過ごしていたか。世界は確かにここに在るのに、自分自身の知覚こそが世界を貧しくも豊かにもすることに、カメラを通して気づかされたのです。カメラをもつと、木々の葉の一枚一枚の色彩のグラデーションから、行き交う人々が投げるまなざしの多様な質まで、世界のニュアンスが実に細やかに目に入るようになり、世界はさざめき始めました。
これが、私の研究の原点です。やがて私は、撮影せずとも、写真をみる行為自体が、世界の豊かさに私たちの知覚を開くレッスンになることを見出しました。写真は、私たち人間の眼で見えるものを超えてカメラという機械の知覚が捉えるものを映し出す、光の痕跡です。そのような写真を徹底してみることを通じて、世界に在るもの、眼には見えずとも世界に潜在するものを見出し、賦活していけるのではないか、まだ漠然とでしたがそんなことを考え始め、しかし、写真研究の可能性については確信をもって、私は大学院の門を叩いたのです。学部卒業後、数年の社会人経験を経てのことです。
私が大学院に入った当時、写真を本格的に「研究」(「制作」ではなく)できる場所も、先行研究などというものも、殆どありませんでした。私は、写真研究を受け容れてくれそうな大学院の表象文化論というコースに入り、授業では現代思想や文学、映画や絵画などを横断的に学びつつ、よき理解者であった指導教官の励ましのもと、直接写真については独学で研究に取り組んでいったのです(しかし学ぶとは、本質において独りおこなう以外にあり得ない!)。
これが、私の研究の原点です。やがて私は、撮影せずとも、写真をみる行為自体が、世界の豊かさに私たちの知覚を開くレッスンになることを見出しました。写真は、私たち人間の眼で見えるものを超えてカメラという機械の知覚が捉えるものを映し出す、光の痕跡です。そのような写真を徹底してみることを通じて、世界に在るもの、眼には見えずとも世界に潜在するものを見出し、賦活していけるのではないか、まだ漠然とでしたがそんなことを考え始め、しかし、写真研究の可能性については確信をもって、私は大学院の門を叩いたのです。学部卒業後、数年の社会人経験を経てのことです。
私が大学院に入った当時、写真を本格的に「研究」(「制作」ではなく)できる場所も、先行研究などというものも、殆どありませんでした。私は、写真研究を受け容れてくれそうな大学院の表象文化論というコースに入り、授業では現代思想や文学、映画や絵画などを横断的に学びつつ、よき理解者であった指導教官の励ましのもと、直接写真については独学で研究に取り組んでいったのです(しかし学ぶとは、本質において独りおこなう以外にあり得ない!)。
アメリカとの出会い
ジョージ?イーストマンハウス国際写真 美術館(NY, ロチェスター)訪問時に
私は写真を通じて、普通の人々をこそ主役とするアメリカに出会いました。初めて書いた論文は、アメリカの写真家ウォーカー?エヴァンスの写真集を分析したものでした。彼の写真は、大恐慌時代の貧困、苦境の記号として機能するばかりでなく、人々の変わることなき暮らしの手触りや喜びをも抱き留めていることを明らかにしたのです。写真という知覚のなかで、食器棚代わりに板切れ一枚を壁に打ちつけスプーンやフォークを挿した室内の風景は、貧しい家庭の悲惨な光景であるどころか、光と影のトーングラデーションによって、静謐さを湛える暮らしの場として浮かび上がってくる。拙いながらも、素朴で静態的な記号論的、反映論的読解を超えて写真にアクセスし、知覚を開くことの意義について、私は考え始めていたのです。
私にとって決定的だったのは、なんといってもアメリカの1960年代の〈社会的風景〉の写真家たちの問いかけと回答=写真作品とに出会ったことです。彼らの根源的な仕事の意義を掴まえるべく研究を続け、その広大な裾野も収めて単著『現代アメリカ写真を読む──デモクラシーの眺望』を上梓したのは、大学に初めて常勤職を得て4年目のことです。彼らの問いかけは、「いったい写真とは、私たちが生きるということにとっていかなる経験か」という、極めて開かれた問いでした。写真の本質に賭ける彼らの問いかけの愚直さを、私はいまでも分け持ち、研究に取り組んでいます。
私にとって決定的だったのは、なんといってもアメリカの1960年代の〈社会的風景〉の写真家たちの問いかけと回答=写真作品とに出会ったことです。彼らの根源的な仕事の意義を掴まえるべく研究を続け、その広大な裾野も収めて単著『現代アメリカ写真を読む──デモクラシーの眺望』を上梓したのは、大学に初めて常勤職を得て4年目のことです。彼らの問いかけは、「いったい写真とは、私たちが生きるということにとっていかなる経験か」という、極めて開かれた問いでした。写真の本質に賭ける彼らの問いかけの愚直さを、私はいまでも分け持ち、研究に取り組んでいます。
今後の研究──映像身体学とともに
韓国の延世大学にて口頭発表(2011年)
今後は、自分の原点に返って、写真を通して〈在るもの〉に触れる喜びを、そして、〈潜在するもの〉に眼を凝らし私たちの知覚を拡張する意義を、特に日本のフィールドで日本の写真家の仕事に焦点を当て、少しでも多くの方々に伝えていきたいと考えています。私はこれまで年に一度はとアメリカに足を運び、合間にシンポジウムなどのために中国や韓国へ赴く機会もあって、多くを得ました。そのなかには、自らが生きるフィールドで〈生きる〉ことができないとしたら、ましてや遠くのフィールドで何もできないだろうという学びもあったのです。
実は、私が自分の仕事をはっきりと見定めることができたのは、映像身体学との出会いゆえ、志を同じくする同僚との出会いゆえなのです。それらは、写真の知覚を巡る私の学をより厳密なものへと精錬する導きの糸となるとともに、何よりも私の原点を深く思い起こさせ、私の仕事の意味を浮き彫りにしてくれました。世界はそれ自体、豊かな差異で満ちて在り、写真はさまざまな水準でその潜在するものを捉えうるということ。そして、人間は変わることなく知覚する身体を有し、写真という機械映像は人間の知覚の自然を突破し揺るがして、それを拡張しうるということ。映像の時代に、身体を持った人間の知覚の努力という営為を探究する映像身体学を通じて、グローバリズムの加速度的進行による世界の均質化や、メディアやテクノロジーの発達による人間の変容や感性の摩耗という危機が席巻するとみえるなかで、浮足立つことなく〈在るもの〉の側から出発する根源的な生の方途を、私は掴み取りたいと思っています。
実は、私が自分の仕事をはっきりと見定めることができたのは、映像身体学との出会いゆえ、志を同じくする同僚との出会いゆえなのです。それらは、写真の知覚を巡る私の学をより厳密なものへと精錬する導きの糸となるとともに、何よりも私の原点を深く思い起こさせ、私の仕事の意味を浮き彫りにしてくれました。世界はそれ自体、豊かな差異で満ちて在り、写真はさまざまな水準でその潜在するものを捉えうるということ。そして、人間は変わることなく知覚する身体を有し、写真という機械映像は人間の知覚の自然を突破し揺るがして、それを拡張しうるということ。映像の時代に、身体を持った人間の知覚の努力という営為を探究する映像身体学を通じて、グローバリズムの加速度的進行による世界の均質化や、メディアやテクノロジーの発達による人間の変容や感性の摩耗という危機が席巻するとみえるなかで、浮足立つことなく〈在るもの〉の側から出発する根源的な生の方途を、私は掴み取りたいと思っています。
※本記事は季刊「立教」229号 (2014年6月発行)をもとに再構成したものです。定期購読のお申し込みはこちら
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研究活動と教授陣
2024/12/20
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立教大学特別授業
プロフィール
PROFILE
日高 優
【略歴】
1995年3月 東京大学教養学部教養学科卒業
銀行勤務を経て、
1998年4月 東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻(表象文化論コース)修士課程入学
2000年3月 同 修士課程修了
2003年3月 同 博士課程満期単位取得
2003年4月 日本学術振興会PD特別研究員
2005年4月 群馬県立女子大学文学部 専任講師/ 2012年3月~ 准教授
2013年4月 立教大学現代心理学部映像身体学科准教授
【著書】
?単著
『現代アメリカ写真を読む──デモクラシーの眺望』(青弓社、2009年/第一回表象文化論学会賞受賞)
?共著
『〈風景〉のアメリカ文化学』(ミネルヴァ書房、2011年)
『美術史の7つの顔』(未來社、2005年)
『現代写真のリアリティ』(角川書店、2003年)
【主要論文】
“The Experience of Pain through an Image: On Human and Inhuman Elements Present in the Works of Andy Warhol,” the Bulletin of the Gunma Prefectural Women’s University, vol.32, Mar. 2012.
「写真の森に踏み迷う──ウィリアム?エグルストンの世界」『写真空間』第4号、2010年7月
「無限退却のリズムパターン──レイ?K?メッカーの写真=世界」『ecce』第一号、2009年7月
【その他】
書評「前田英樹『ベルクソン哲学の遺言』 開かれた書物に、生の態勢を学ぶ」『立教映像身体学研究』第2号、2014年3月 等
※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合がありますのでご注意ください。